生活している人間しか信頼しない

観葉植物を育て始めて何年か経った。育てるのはたいしてうまくもないが、植物が元気にやっているのでいいかと思う。いろいろ試して生き残ったのは、蔓がいくらでものびるポトス、近所の農協の直売所で500円だったガジュマル、スーパーの花売り場で買ったフィカス(ゴムの木)のみ。最近少しだけ野菜の水耕栽培も始めたが、これはうまくいくかどうか不明だ。

何を育てても枯れるので、部屋の中でも簡単に育つ植物を図書館の本で調べ、最終的にこの顔ぶれで安定した。そもそもは、鬱がひどいときに、「朝なにかに水をやる」というタスクがあると、めちゃくちゃしんどいけどなんとか頑張って起きようという気になるので、鬱の朝の対処法として始めたものだ。あとは、好きな映画『LEON』で、レオンが窓辺の観葉植物に葉水を霧吹きでかけていて、おれはそれまでそんな霧吹きが必要な植物をそだてたことがなかったから、そういうのを家に置きたいと思った。

レオンは殺し屋なのにめちゃくちゃちゃんと生活している。朝は目覚ましで定刻に起き、毎朝同じものを食べて、牛乳を飲み、筋トレして、ちゃんとした格好に着替えて出勤する。借りてる家はキッチンが広いし、かわいい豚の形のキッチンミトンまで常備している。

おれが学生の頃、20年くらい前の若者には、クリエイターは破天荒で社会生活不適合でコミュニケーションにも難があり、家事などはもってのほか、生活感がなければないほど美しいみたいな感覚があったように思う。それはパリピなギャルでも、オシャレなアート系でも、二次元大好きなオタクでも共通だ。徹夜で遊び歩き、終電をなくして、同人誌を作りすぎて金がなくなったり、酒に溺れて記憶をとばしたりするのが、それぞれにかっこいいということになっていた。

おれはまじめに生活をやっている小説家や芸術家が好きで、当時は肩身が狭かった。がり勉で生活が好きなんてダサいといわれるからだ。古川日出男が自伝的な私小説の中で自分の調理の様子を細かく書くのや、いしいしんじが三崎や京都のつぶさな日記で日々の暮らしをシェアしてくれるのが好きだった。浮世離れがちな堀江敏行が小説『なずな』で単身で赤ん坊を育てる中年男性を主人公に据え、忙しすぎて自分の食事が用意できないので食パンに砂糖をふったトーストを食べているシーンを書いたときは本当に感動した。

生活している人間しか信頼していない。いくら素晴らしい小説や音楽やアート作品や科学研究の成果、その他もろもろの何かを作り出せても、まじめに生活に向き合ってないなら全然そんなん何の説得力もないと思う。

おれの職場の研究所の、共用研究室のごみ箱は、可燃・不燃・ペットボトル・かんびんしか区分がないが(実験室はもっと厳格なんだけど)、それでもまちがって捨ててるやつが常にいる。おおかたまじめに分別するのが面倒になって表示を無視しているのだろう。いくら研究を立派にしていようと、家庭ごみの分別すらできないなら何が研究者だよと思う。

そういうことを思いながら観葉植物に霧吹きで葉水をやる。レオンの殺し屋としての実力の高さは、植物に葉水をやるような堅実な生活が裏打ちしているのだから。

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